きみの絵


絵を買った。生きていて、はじめて、お金を出して絵を買った。
工房のグループ展。銅版画。

きみが、楽しくかいたんだろうなあって、想像のつく絵だった。
シーラカンス。余白の液体のなかを、はなびらのようなひれたちで、ゆらりと通り過ぎる。
余白がこわくて、埋めてしまうと言っていたけど、埋められなくてよかった水辺。
明暗が、はっきりしていてきれいなんだ。しろさが、浮かび上がっているんだ。ぼんやりと、ひかり、圧倒的な影なんだ。

もういちまい、気に入った銅版画も買った。ほかの女のひと。砂漠の夜に、木星が落ちてくるような、土星も落ちてくるような、それをラクダに乗ってただ見ている、もしくは見ていないような絵。
砂漠にはなんでも落ちているんだね。

絵を、部屋の壁に飾るのはすきでなくて、だって落ち着かない。だから、本棚に飾るんだ。どこのすきまに飾ったらいいかな、考えることが楽しい。

きみの絵は、高校生のときからだいすきで、きみのことも、高校生のときからだいすきだ。

お金を、評価に用いる絶対的なものだとは思わないけれど、それでもこの資本主義のなかで、きみの絵が売れて、お金で取引されていることに尊敬をする。お金を払って、ほしいと思ってもらえる、そういうものを生み出していることに、感動をする。
正しい価格で、正しい取引を。
涙が出そうなんだ。きみへの祝福は、高校生のころから鳴り止んだことはない。ずっと、ずっとこうなると思っていたよ。それだけ、きみの絵はひとを、ひきつけるんだ。

おめでとう、おめでとう。
いまでも、なによりも存在を優先してしまう、互いのパラレルの向こう側である、きみへ。
山根一葉へ。